日本サッカーの父 クラマー氏のご冥福をお祈り申し上げます・・・
管理人日記 - 2015年09月19日 (土)
日本サッカーの父デッドマール・クラマー氏が亡くなった。

写真提供元:ウキペディア
クラマー氏は1925年にドルトムントで生まれたドイツ人です。
1941年16歳でボルシア・ドルトムントに加入しています。
1941年ですから第二世界大戦中のことです。
そんなクラマー氏がはじめて日本を訪問したのは1960年の35歳のことです。
その後日本サッカーに尽力し、あのメキシコオリンピックでの銅メダル獲得に大きく貢献することになったのです。
クラマー氏は旧態依然とした日本サッカーの変革に尽力をつくしました。
外国人コーチを迎えることだけですら考えられなかった日本のサッカー界を大きく前進させたのです。
大仁会長のコメントにあるように来日当初、日本の選手はインサイドキックすらまともに蹴れなかったようです。
そんな日本サッカーを1964年の東京オリンピックでのベスト8に導いたのです。
1964年クラマー氏は離日の時、日本サッカーへの5つの提言を残して去りました。
クラマー氏 日本サッカーへの5つの提言
1.強いチーム同士が戦うリーグ戦創設。
2.コーチ制度の確立。(育成)
3.芝生のグラウンドを増やし、維持する。
4.国際経験を積む。代表チームは毎年1回は欧州へ遠征し、強豪とアウェイで対戦する。
5.高校から日本代表チームまで、それぞれ2名のコーチを置くこと。
参考:三上孝道「日本サッカーの父 デッドマール・クラマーの言葉」
クラマー氏の提言により、1965年に日本サッカーリーグが発足したのです。
しかし、その後1968年のメキシコオリンピックの銅メダルを最後に約30年間もの間、日本サッカー界は低迷の時を過ごすことになりました。
そして、クラマー氏が日本を去って約30年・・・
1993年に日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)が開幕、クラマー氏の5つの提言がついに現実的なものとなったのです。
さらにあれから22年、クラマー氏の5つの提言から51年・・・。
日本サッカーの父は天国へと旅立たれたのです。
この22年で日本サッカーは大きく変わりました!
W杯予選ではあれこれと言われている日本代表ですが、それも世界の舞台で戦えるチームだからこそです。
ワールドカップではじめて1勝をあげてからまだ13年・・・はじめての1勝までの長い道のりを考えればまだまだこれからです。
それでも、クラマー氏の唱えた5つの提言は脈々と生き続けていると感じます。
開幕当初10チームだったJリーグクラブも今ではJ1・J2・J3合わせて52クラブになりました。
全てのチームが順風満帆というわけではないけれども、夢をもってチャレンジしています。
52クラブもあるということはその数だけ下部組織でサッカーを夢見る少年少女たちもいます。
その数だけ指導者も芝生のグラウンドも・・・。
クラマー氏そして、外国人コーチなんて受け入れるような時代じゃなかった時代になんとかせねばとクラマー氏を招聘した当時の日本サッカー界、この大きな決断が今の日本サッカーの源なのだと思います。
メキシコオリンピックで銅メダルを獲った後、バイエルンミュンヘンを率いてUEFAチャンピオンズカップを優勝したクラマー氏は人生最高の瞬間を問われて
長沼健監督率いる日本代表がメキシコオリンピックで銅メダルを獲得した瞬間だと答えました。
クラマー氏がいかに日本サッカーに尽力したかがわかるエピソードですね。
私自身、クラマー氏については文献などによってしか知りえることはできませんでしたが、そのエピソードだけでも日本サッカーの父だと思えました。
ご冥福をお祈りいたします。

写真提供元:ウキペディア
「日本サッカーの父」と呼ばれるデットマール・クラマー氏が亡くなったことが分かった。90歳だった。
1960年、東京五輪を控えたサッカー日本代表を指導するため、コーチとして来日。64年には同五輪でチームを8強入りさせた。
国内リーグの必要性も提言し、65年の日本サッカーリーグ設立に導いた。
18日にJFAハウスで取材に応じた日本協会の大仁会長は「インサイドキックを徹底して教えられた。基本が大事なのだと。今の日本のサッカーにも教えは生きている」と話した。
出典サイト:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150918-00000104-nksports-socc
クラマー氏は1925年にドルトムントで生まれたドイツ人です。
1941年16歳でボルシア・ドルトムントに加入しています。
1941年ですから第二世界大戦中のことです。
そんなクラマー氏がはじめて日本を訪問したのは1960年の35歳のことです。
その後日本サッカーに尽力し、あのメキシコオリンピックでの銅メダル獲得に大きく貢献することになったのです。
クラマー氏は旧態依然とした日本サッカーの変革に尽力をつくしました。
外国人コーチを迎えることだけですら考えられなかった日本のサッカー界を大きく前進させたのです。
大仁会長のコメントにあるように来日当初、日本の選手はインサイドキックすらまともに蹴れなかったようです。
そんな日本サッカーを1964年の東京オリンピックでのベスト8に導いたのです。
1964年クラマー氏は離日の時、日本サッカーへの5つの提言を残して去りました。
クラマー氏 日本サッカーへの5つの提言
1.強いチーム同士が戦うリーグ戦創設。
2.コーチ制度の確立。(育成)
3.芝生のグラウンドを増やし、維持する。
4.国際経験を積む。代表チームは毎年1回は欧州へ遠征し、強豪とアウェイで対戦する。
5.高校から日本代表チームまで、それぞれ2名のコーチを置くこと。
参考:三上孝道「日本サッカーの父 デッドマール・クラマーの言葉」
クラマー氏の提言により、1965年に日本サッカーリーグが発足したのです。
しかし、その後1968年のメキシコオリンピックの銅メダルを最後に約30年間もの間、日本サッカー界は低迷の時を過ごすことになりました。
そして、クラマー氏が日本を去って約30年・・・
1993年に日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)が開幕、クラマー氏の5つの提言がついに現実的なものとなったのです。
さらにあれから22年、クラマー氏の5つの提言から51年・・・。
日本サッカーの父は天国へと旅立たれたのです。
この22年で日本サッカーは大きく変わりました!
W杯予選ではあれこれと言われている日本代表ですが、それも世界の舞台で戦えるチームだからこそです。
ワールドカップではじめて1勝をあげてからまだ13年・・・はじめての1勝までの長い道のりを考えればまだまだこれからです。
それでも、クラマー氏の唱えた5つの提言は脈々と生き続けていると感じます。
開幕当初10チームだったJリーグクラブも今ではJ1・J2・J3合わせて52クラブになりました。
全てのチームが順風満帆というわけではないけれども、夢をもってチャレンジしています。
52クラブもあるということはその数だけ下部組織でサッカーを夢見る少年少女たちもいます。
その数だけ指導者も芝生のグラウンドも・・・。
クラマー氏そして、外国人コーチなんて受け入れるような時代じゃなかった時代になんとかせねばとクラマー氏を招聘した当時の日本サッカー界、この大きな決断が今の日本サッカーの源なのだと思います。
メキシコオリンピックで銅メダルを獲った後、バイエルンミュンヘンを率いてUEFAチャンピオンズカップを優勝したクラマー氏は人生最高の瞬間を問われて
長沼健監督率いる日本代表がメキシコオリンピックで銅メダルを獲得した瞬間だと答えました。
クラマー氏がいかに日本サッカーに尽力したかがわかるエピソードですね。
私自身、クラマー氏については文献などによってしか知りえることはできませんでしたが、そのエピソードだけでも日本サッカーの父だと思えました。
ご冥福をお祈りいたします。
デットマール・クラマー 日本サッカー改革論 | ||||
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