日本の教育現場を変えるのは私たちだと思う
子どもを伸ばす親になる - 2016年03月10日 (木)
子どもとは失敗を繰り返すものです。
間違ったり、失敗したりして学んでいくものだと思います。
それは教育の大前提なのではないのでしょうか?
教育者は強いて言えば大人は、子どもの間違いや失敗を暖かくフォローして、
社会に順応できるように時には叱り、指導し子どもの成長をサポートするのではないでしょうか?
最近のニュースを見ていると、
まるで教育現場は裁判所のように感じます。
私が知る限り、
多くの教師の方個人は我々保護者と同じように子どもたちを思う人ばかりです。
しかし、いざ教育システムに目を向けると、
その教育システムは減点方式で子どもを数値化(データ化)して管理しているように感じます。
数値化は確かに管理という面では大変有効な方法ではあります。
いろいろな面で平等に見る資料にもなりえるかも知れません。
その数値化した資料の使い道を誤ると、
失敗して学ぶという子どもの大前提を認めないものになってしまうのではないでしょうか?
確かに最近は少年の凶悪な犯罪が増えてきています。
失敗では許されない事件も連日ニュースで流れています。
しかし、彼らがそこまでに至る前に事件を起こさせないことが社会としてできないのでしょうか?
教育現場だけの問題ではないでしょう。
事件を起こした子どもの多くは教育現場からすでにドロップアウトしています。
結局は責任は巡り巡って我々大人全体にあるように感じます。
今の教育システムも結局は我々の投じた選挙によって作りあげてきたものです。
その選挙の投票率が30%だ40%だという現実を考えると本当に大人全体が考え直さなければいけないのではないでしょうか?
投票率だけの問題でもないでしょう。
本当に考えて投票したのか?
投票したあともちゃんと公約通りに働いているかチェックしたのか?
そこまで考えると私自身できていなかったと深く反省しています。
今回はいつもと違う感じになってしまいました。
本当に悔やまれることがいつまでもなくなりません。
もう同じことは繰り返さないようにしなければなりません。
間違ったり、失敗したりして学んでいくものだと思います。
それは教育の大前提なのではないのでしょうか?
教育者は強いて言えば大人は、子どもの間違いや失敗を暖かくフォローして、
社会に順応できるように時には叱り、指導し子どもの成長をサポートするのではないでしょうか?
最近のニュースを見ていると、
まるで教育現場は裁判所のように感じます。
私が知る限り、
多くの教師の方個人は我々保護者と同じように子どもたちを思う人ばかりです。
しかし、いざ教育システムに目を向けると、
その教育システムは減点方式で子どもを数値化(データ化)して管理しているように感じます。
数値化は確かに管理という面では大変有効な方法ではあります。
いろいろな面で平等に見る資料にもなりえるかも知れません。
その数値化した資料の使い道を誤ると、
失敗して学ぶという子どもの大前提を認めないものになってしまうのではないでしょうか?
確かに最近は少年の凶悪な犯罪が増えてきています。
失敗では許されない事件も連日ニュースで流れています。
しかし、彼らがそこまでに至る前に事件を起こさせないことが社会としてできないのでしょうか?
教育現場だけの問題ではないでしょう。
事件を起こした子どもの多くは教育現場からすでにドロップアウトしています。
結局は責任は巡り巡って我々大人全体にあるように感じます。
今の教育システムも結局は我々の投じた選挙によって作りあげてきたものです。
その選挙の投票率が30%だ40%だという現実を考えると本当に大人全体が考え直さなければいけないのではないでしょうか?
投票率だけの問題でもないでしょう。
本当に考えて投票したのか?
投票したあともちゃんと公約通りに働いているかチェックしたのか?
そこまで考えると私自身できていなかったと深く反省しています。
今回はいつもと違う感じになってしまいました。
本当に悔やまれることがいつまでもなくなりません。
もう同じことは繰り返さないようにしなければなりません。
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